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12月となり、あっという間に日が暮れるのが早くなってきました。
玉来ダムでは、平成29年3月に本体建設工事に着手し、平成30年10月から堤体コンクリートを打設開始。令和3年8月に約18万立方メートルのコンクリート打設が完了しました。
また、令和3年11月15日に二次転流を完了しました。
現在は、天端橋梁仕上げ工事や貯水池の止水工事(※1グラウチング)を行っています。
引き続き工事の安全と周辺環境に、より一層配慮し、早期完成に向けて事業を進めていきます。
※1グラウチングとは、 ダム上流部の止水対策として、岩盤内の割れ目にカーテン状にセメントミルクを注入するもの。
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令和3年12月2日撮影
玉来ダム左岸上流部、管理棟から見える山に、※篠原目(ささばるめ)城と呼ばれる山城があったと言われています。
山城は基本的には、戦うときに使う城で、当時の城の一般的なものは、天然の地形を利用した土塁で囲んだもので、全国的にも保存状態の良いものは少ないと言われています。
物見櫓や武器や食料を保管するための簡単な倉庫、その周囲に堀や柵、土塀を必要な場所に造り、普段は山麓に造った居館で生活していたと言われています。
篠原目城は、豊薩合戦でも取り上げられていますが、戦が激しかった為か残存している文献的資料は、大変少ないものとなっています
ここでは、天正十四年(西暦1586年)、435年前の12月24日に、薩摩軍と戦があったそうです。 白坂石見守率いる600余騎の島津軍によって攻撃を受けます。守る将は、わずか100余騎の阿南三右門惟重。惟重は詐って使者を出し降伏し、敵の白坂岩見守を城へと招き入れます。白坂石見守は、この惟重の態度に城の裏門の守備を任せます。実は、この時既に惟重は、岡城へと密使を出し城を奪い返す作戦を伝えていました。城主、志賀親次は、援軍として中尾伊豆守、大森弾正に命を下し1700人の人数で救援に向かわせました。12月28日の暮れ、わずかの兵で攻撃をしかけ、多くは隠れて陣を敷いていました。少ない兵を見た白坂石見守は、城の外へ打って出ますが、隠れていた兵に取り囲まれ退却をはじめました。その時を見計らって、惟重は裏門に火を放ち白坂の退路を断ち、逃げる白坂岩見守を追撃し討ち取ったと言われています。後日、岡城の志賀親次宛てに豊臣秀吉より感状が届いたとされています。
今の風景は、山しかありませんが、今も昔も竹田の守りの要の地区と言うことが感じられるエピソードです。
※篠原目城の呼び方については、直入郡史に「ささばるめ」、詩情豊かな岡城物語には「ささはらめ」の読みがありますが、今回は、地元の方が呼んでいる「ささばるめ」の読みで統一いたしました。
参考文献: 直入郡史 巻の六
詩情豊かな岡城物語 著者 北村清士
竹田市の文化財としての山城 著者 廣田 敦
遺跡と伝説の里宮城 著者 堀 武士
大分の中世城館 第三集 地名表・分布図編 発行 大分県教育委員会
大分の中世城館 第一集 文献資料編1 発行大分県教育委員会
竹田市史 第5章 豊薩戦争と郷土 著者 賀川光夫監修 竹田市史刊行会
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